私の考える命の話

 

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私、小さい時から生き物が大好きでした。

 

子猫、子犬、哺乳類だけでなく

トカゲやヘビ、カエルも虫も綺麗で
かわいくて、ずっと見ていられます。

 

幼い時は「自分だけの」ペットが欲しくて
石を自分の引き出しにしまっていました。
「私、石飼ってるの!捨てちゃダメ!!」と
母に頼んだのを覚えています。

石にも命を感じていたのか
それともただただ、寂しくて、石を飼っていたのかは、わかりません。

 


私が生まれた時にはもう、家族が犬を飼っていました。

私が3歳になって、ちょうど

妹が生まれるころ、祖父と祖母と一緒に
子猫をもらいに行きました。

私は「もうひとりの私のいもうと!!」と
かわいがりました。

初めての子猫のお腹の模様、肉球の色、抱っこした感じ
覚えています。
生後三か月に満たない雌の猫でした。

その数か月後に家で飼っていた犬にも子犬が産まれて
私は「猫と犬を仲良くさせるんだ!!」と
子犬の群れの中に子猫を連れて行きました。

猫は嫌がって暴れたので、犬小屋の中に子猫を落としてしまいました。
今思っても危なく恐ろしいです。
泣きながら祖母を呼んできて犬小屋へ入りました。

子猫はすみっこでおびえていましたが無傷でした。

私は小学生になると、ハムスターを飼い始めました。
今度は反対に、ハムスターをその猫が襲う出来事がありました。

私はその猫に「やめて!!放して!!」と叫ぶと

くわえていたハムスターを、猫は返してくれました。

そんな経験の中生きていたので
私にとって動物は、人間よりとても優しい存在に感じていました。

 

私は物心ついたときから、どうしようもない不安感や孤独感があって
それを忘れるために、命を感じていたかったのかもしれません。

生き物は、言葉を共有しなくても、そっと私に寄り添ってくれているようでした。

 

人間は、言葉がある分、簡単に人を傷つけるように感じていました。

そういう感覚は、生きるのをより生きづらくさせていたので

本当に小さな虫や、成虫になっても食事をしない蚕なんかを見て

「生きる」を考えていました。

 

9歳の時に、私は原因不明の症状が体に現れて

人と外見が違う状態になりました。

そのことは、小学生の中ではとても大変なことでした。

人は外見が変わることでこんなにも違う扱いを受ける、という体験は

大人になってからも重く、ずっと私をおびえさせました。

 

「みんなと違うように見えるけど、私もみんなと同じように傷つくし

みんなと同じように生きているだけなのに。」

 

この思いは、生き物をより好きになるきっかけだとも思います。

 

姿かたち、種族が違っても

「命」は同じなんじゃないか。

みんなしゃべれないだけで、私みたいに「同じ命なのに」と

心は叫んでいるのではないか。

 

この感覚があるおかげで、


重度の障害や病気でしゃべれない方、

外国の方、傷ついてかみつく犬や猫、

言葉は共有できなくても

心はつながれる、という思いを持って関わってきました。

 

 

どんな命とも、一緒に
地球という場所で生きる友人のように感じていました。

 

ただ、生き物が死んでいく姿は、見ているのがつらいです。

きっとほとんどの人はつらいのですが

私はその命がなくなることは

私の責任だと誰かに責められるような痛みがありました。

それはあまりにも苦しかったのですが

あやさんとのメールをきっかけに、自分の中でも

忘れていた体験を思い出しました。

 

それに気づいてから

生き物が死ぬことはとても自然なことで

大きな地球というサイクルの中で

私が思う以上の大きな愛に包まれていることなのではないか

と思えるようになりました。

 

自然を見ていると、

その種族が生き延びるために、一番強い個体が生き延びられるように

なっている気がします。

そのことはなんだか残酷に見えていました。

人間がここまで自然に介入しているのだから

私のできることはないのかとすごく考えることもあります。

 

でも、「自分の領域」に集中すると

できること、しなくていいことがわかってきました。

生きている限り、命ってことを考え続けて、

生き物と接するたび、いろんなことを感じるんだと思います。

 

これがあやさんとのセッション2回目から3回目までの間の出来事です。

 

やっと書けました。

 

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